事情

   5


「君達って、南の生まれだっけ?」
 しっとりと落ち着いた少年の声。
 羽乃芽を澄んだ鈴に、凛を柔らかい木琴の音に例えるなら、少年の声は落ち着いた笛の音色のようだった。
 不思議に響く彼等の声も、雑踏に紛れて途切れ途切れに聞こえる。
 ここは蒼嵐学院南方に位置する掲示板前。生徒達の宿舎と塔の間に位置する生徒達の集合場所。
 塔の中で泊り込むような事が無ければ、彼等は再びここで仲間と合流し塔を目指す。
 中には学院の斡旋するバイトをこなしに学院側へと歩いていく者も居たが、それは僅かだった。

「そうだよ〜。私はノノ村で、羽乃っちはトアルケルラ村生まれ」
 凛は自分達の生まれの村を言ったが、当然少年にはその村がどこにあるかなど分からなかった。
 地理について詳しいのは商人くらいのものだ。国が違えば呼び名が変わる事もあるし、測量の誤差のおかげで全く違う位置に村が存在する事になっていたりする。その二つが同時に起こるとまさに最悪だ。知っている筈の村が無く、代わりに聞いたことの無い名前の村が、少し離れた場所に記載してあったりする。
 商人の頭の中にはそうした無茶苦茶な地図より正確な地図がある。
 ある話がある。それならば、その地図を商売の道具にすればいいではないかと、地図の製作を頼んだ王が居た。だが彼は、自分達商売人の利益を守る為にそれはしない、と言った。
 地図を渡してしまえば、王が代わりに商売をする事も、また商売先の国を全て制圧して交易が成り立たないようにしてしまう事もありえない話ではない。だから商人は王の依頼を断った。
 彼等の権力は時には一国家の王さえも超える。
 一人の商人を敵に回せば、全ての商人を敵に回したも同然であったからである。
 王は結局、その商人に地図を作ってもらう事は出来なかったという。
 そのエピソードが事実かどうかは別として、彼等商人の権力は国の長に匹敵するものだ。ある意味では王国神官などよりも上の立場である。
 勿論、個々の立場自体はそれほどに強くは無い。
 だが、凛はそうした商人に憧れ、夢を持っている。
 商人は時として戦争を収める。商人は時として疫病から村を救う。商人は時として飢餓から国を守る。
 やはりそれらのエピソードが事実であったかどうかは別として、凛はその力が商人にあると信じ、そしてその道を進もうと決めたのである。
 親が商人であったという事は、彼女の中ではあくまでもオマケの理由でしかない。

「道理で……この暑いのに異常だよ」
 羽乃芽はローブを、凛は皮の鎧を着ている。
 確かに夏ではあったが彼が言う程には二人とも暑くは感じていなかった。
 それが南の産まれである為かどうかは定かじゃなかったが、涼しい風が北から吹いてきている。時折吹くその風のおかげで、二人は暑いとまでは感じていなかった。
 何が異常かと聞かれれば、塔の中の寒さの方が異常だった。真夏だろうと真冬だろうと変わらず中は寒いのだ。二人はそこへ今日も挑戦する。よほど暑くない限りは脱ぐのは二度手間。面倒だった。
「ふぅ……エスタッテルブの方は殆ど終わったって言うのに」
 そこへ女性がやってくる。
 つややかな黒く長い髪を肩まで伸ばし、銀のフレームの眼鏡をしている。
 銀は下手な貴金属よりも高価な為、その眼鏡が彼女の地位の高さを表している。だが、彼女がその地位をひけらかした事は、少なくともここに居る三人の前では無かった。
「お疲れ、ミリィ」
「何言ってんのよ。力仕事は男の役割じゃない」
 そう言って眼鏡を外して額の汗を拭った。
「お疲れ様〜。大変だねー」
「いえ、本当に大変なのは次のアルセルブの方々が来られてからです」
 凛に対して笑顔を浮かべてミリィが言った。
 始め、凛は彼女がこうして敬語でしか話してくれないのを、距離を置いているせいだと思っていた。
 だが、滅多に人前で笑顔を見せない彼女が自分達だけに笑顔を向けるという事を知った日、その考えを改める事にした。
 傍らに居る少年が、ただ特別過ぎるだけなのである。

「ところで今、トアルケルラ村って仰いましたか?」
「うん。羽乃っちの村だよ」
 凛がところどころ省きながら説明した。
 当然羽乃芽所有の村ではないし、羽乃芽の家族が所有している訳でもない。
「毎年ドアケラ鳥の被害が出ている地域の一つに、その村がありましたね。古代語でドアケラの道……でしょうか」
「古代語なんてわかるの?」
「ミリィは教員目指してるから何でも知ってるのさ」
 凄いと感嘆する凛を前に、少年がふんぞりかえってまるで自分の事のように誇って言った。
 ミリィが少年の方を見ることもなく頭を拳でごつっと叩く。
「古代語の翻訳は国によって異なりますし、私には手におえません。ただ、トアルケルラ村に関しては伝承などもありますから、ほぼ確実だと思います」
 それを聞いて凛が机に体を乗り出した。
 その性質が自分に必要だと意識して身に付けたのかは凛本人にも分からなかったが、商人には興味、好奇心といったものが非常に重要だった。何が金になるか、それを見極める際に必要なものなのだ。 
 そしてその好奇心から、ミリィに一つ質問をしてみる事にした。
「ねぇねぇ。私の村は、もしかして古代語で意味があるの?」
「え……」
 ミリィが言葉に詰まった。
 凛はそれを、村の名前を忘れてしまったからだと思った。
 だが、冷静に考えればそんな事はありえない。
 ミリィ程注意深く人の発言に耳を傾ける女性が、たった二文字からなる名前を聞き逃すなんて。
 ノノ村だよ、そう言って答えを促す凛。
「草……」
「え?」
 今度は凛が同じように言葉を発した。
 一見すればミリィの時と同じようだが、この場合は発言の意図を尋ねている。
「草、だと思います」
 凛が黙って、地面にしゃがみこむ。
 羽乃芽が不思議そうにしゃがみこんだ凛に視線を向ける。
 机に乗り出すように、ミリィと少年も彼女を見る。
 次の瞬間、不意に立ち上がった彼女は、その指先に緑色の草をつまんでいた。
 右手を軽く上げて首を傾げる凛に、目を丸くさせてミリィがコクコクと頷いた。
「はぁ……なんか微妙だ〜」

 ドアケラ鳥の通る所、草残らず。
 その言葉の通り、ドアケラ鳥は人が走るより早い速度で駆け回り、草を食べていく。
 ノノ村は太古の昔、草の丘と呼ばれ、ドアケラ鳥の対策の為に利用されていた土地である。
 人が住み辛い草の丘へとドアケラ鳥を追いやる事によって人の住む地域に被害を出さないようにしていたのだ。
 だが、いつしかそこに人が住むようになってからは事情が代わり、ドアケラ鳥による被害が頻発するようになる。
 ドアケラ鳥の勢力は太古の昔から大きく、同時に現在に至るまで続いている。
 トアルケルラ村がトアルケルラ村を名乗ったのはノノ村が出来てから相当後である為、トアルケルラ村が後に出来た村だという記述も様々な本に見られるが、トアルケルラ村を名乗る前からそこには小規模な集まりがあった。
 様々な村が乱立する過程で、もっとも被害の少ない場所――人があまり居ない場所を選んだ結果、その集まりがトアルケルラ――ドアケラ鳥の道とされ、そう呼ばれるようになった。
 ただし、それが正しいという事は、誰にも分からない。
 本によって記述がまちまちで、誰も真偽を確かめられなかったからである。
「その子が羽乃芽さんに従うようになったのも、きっとその辺りの事が関係あるのだと思います。本来魔物は人に敵意しか持たない筈ですから」
 その子と呼ばれた事を理解し、ケラが軽く声を上げた。
「ただの鳥なのに頭良いなぁ。やっぱり魔物だから?」
 少年の言葉に対して、地団駄を踏むように右足を地面をどすどすと踏みつけた。
「なんか怒ってる……?」
「ドアケラ鳥は元々賢い動物なのよ。扉がどこにつけられているか。どのような形をしているか、そういう事を一瞬で把握して蹴り破れるかどうかを見抜けるらしいわよ。もしかしたらフェンの言った事も全部理解してるのかも知れないわね」
 ミリィが楽しそうに言うが、少年――フェンは眉を顰めている。
「う、うん。凄い鳥だ!」
 フェンの言葉に満足したのか、ケラは軽く鳴いてみせた。



「もう、4層まで登ったのですよね?」
「うん。ケラっちの角が伸びたり、羽が抜け変わったり、凄かったよ〜」
 ミリィの期待していた答えとは全く違う返答を凛は返した。
 ミリィは目の前の魔獣を見上げた。
 確かに、彼女が図鑑で見たドアケラ鳥とは違う。
 とはいえ、図鑑にそれほど詳細な絵が描かれていた訳では無いので、彼女にもそれがどれだけ違っているのかはよく分からなかった。角が生えているという点は大きく異なっていてすぐに分かったが。
「確かに……ではなく、もうすぐ五層ですね。戦士の資格が得られる階層ですけど、学院側で隠したアイテムを取る事が条件です。行く途中で色々と買っておいてください、時間がかかりそうなので。塔の中で一日過ごす覚悟はしておいた方が良いかも知れません」
「そっか〜。じゃ、そうしよっか」
 凛が羽乃芽に訊ねた。
 羽乃芽は凛の方を向いて首肯した。
「気を付けて」
「お気を付けて」
「うん!」
「行ってきます」
 凛と羽乃芽が動き出したのを見て、道の半分を塞いでいたケラも立ち上がった。
 そして一声鳴いて、ミリィとフェンの視界から消えていった。
「僕等もバイトばっかりしてないで、たまには塔に行ってみたいね」
「これ以上資格があっても……今は学院に居た方が有益だわ」
 取り付く島も無いと軽く鼻で笑って、フェンは立ち上がる。
「どこへ?」
 背後に設置された棚から本を取り出して問うミリィ。
「ちょっとドアケラ鳥の事で先生に報告しておこうかなってね。あれは、人の言葉を完璧に理解してた」
「……これから本を読みたいんだけど?」
 つまり、本を読みたいから掲示板を見張っておけという意味だった。
 誰かが掲示板にイタズラするかも知れないし、そうでなくても本を読んでいる人間に声は掛けづらい。
 誰かが何もせずに座っていなければ仕事にならない。
「全くしょうがないな、ミリィは」
 溜め息をつきながら座ったフェンの頭を、その拳でやはり無言のまま殴る。
 辺りには喧騒が満ち溢れていたが、その二人の間だけは不思議と静かな空気が流れていた。









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