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4 「ラクッコピッコリン。ラクッコピッコリン」 燭台が僅かな灯りを揺らめかす暗い屋内に、どこまでも明るい声が響いていた。 やがて、微かな緑色の光が現れ、それが大きく揺れながら徐々に近付いて来る。 その声と同じ拍子で響いてくる足音もあった。 そして、一人の少女が跳ねるような独特な歩法で燭台の灯りの下へと現れた。 「ケラっちが居ると、ラクチンだね〜!」 少女――凛が背後の暗闇にそう言った。 返事は無い。 だが、その代わりに、何物かの吐息と、二つの足音が響いてきた。 一つは人間のソレ。 もう一つは硬い石の床に、同じく硬い何かを当てているような音がしている。 暫くして、その足音の主も光の下へと現れた。 肩を揺らして深呼吸をするローブの少女と、大きな鳥だった。 「凛ちゃん、早いよぉ……」 「クアァー」 凛は得意げに笑い、両手を肩まで上げて左右に広げた。 ゆっくり首を振ると、魔獣を見上げて言った。 「ほら、ケラっちも笑ってるよ、羽乃っち情けないって」 その言葉に、魔獣がぶんぶんと左右に首を振った。 魔獣――ケラと名付けられた――の背中には沢山の荷物が積まれていた。 胸の辺りから掛けられた縄が背中の板を固定し、その板の上に色々な物が載せられている。 そのおかげで羽乃芽と凛は、完全に手ぶらであった。 とはいえ、凛は剣を背中に背負い、厚手の皮で出来た服を着込んでおり、身軽とは言い難い。 それに対して羽乃芽は私服の上にローブを羽織っただけというシンプルな着こなしである。 だが、二階への階段に辿り着いた頃には、まるで重鎧でも装着しているのではないかと思われるほど、羽乃芽の足取りは重かった。 「すっごいね〜。ケラっちのおかげで二階まですぐだったよ〜」 凛がケラへと手を伸ばし、そのクチバシを撫でる。 その傍らで、地面に座り込む羽乃芽。 「はっ……はっ……早いよぉ……」 「はのっちもよく頑張ったね〜」 「疲れたぁ……」 べたぁっと地面に這いつくばる羽乃芽。 お尻だけが上がった、妙な姿勢になっている。 「ちょっと休憩したら、二階に上がろっか。二階からは羽乃っちがマッピングするんだよ〜」 「ん〜……」 そう答えて、羽乃芽はごろりと横になった。 二階。 彼女達は一度、ここに来た事がある。 一階とは壁や床の色が違い、土のタイルと煉瓦で作られており、大理石のような石のみで構成された一階と比べてどこか古めかしい。 二階を上がってすぐの広間に学園が雇っているバイトが立っており、羽乃芽達を確認すると手元の紙に何かを書き込んだ。 彼は学園の生徒が無事に冒険が出来るように、通行を調査しているのである。 通行量調査のバイト員、というと何か語弊があるが、そのようなものだった。 階段を上がると目の前に二つのアーチ状の穴が開いている。 それを出ると左右に通路が伸びており、再び僅かな灯りが存在するだけの迷路となっている。 以前に来た時は、右のアーチから通路へ行き、左のアーチから広間へ戻り、羽乃芽が疲れたら逆側で立ち止まるなど、それを何度も繰り返して凛が羽乃芽を半泣きさせていた。 最初から凛は帰るつもりだったので少し遊んでいただけなのだが、羽乃芽は本気で置いていかれると思ったのだった。 その後本当に置いていかれたのは、羽乃芽としては予想外であったが。 「な……ちょ、あんた! 後ろの魔獣、なんかおかしいぞ!」 先ほど羽乃芽達を見て手元の紙に何かを書き込んだ男が、声を荒げてそう言った。 二人がケラを見ると、頭をぶるぶると震わせていた。 やがて甲高く鳴き声をあげ、地団駄を踏み始める。 何かを耐えられなくなったのか、荷物を散乱させながら地面に転げた。 羽乃芽と凛が心配して声をかけるが、全く反応は無い。 それどころか、心配する羽乃芽や凛の姿が見えないほどに苦しんでいるようだった。 そしてついに、介抱しようと近寄った羽乃芽をその巨体で押した。 とはいえ、それは攻撃の意思があった訳ではなく、本当に軽く体が接触しただけである。 体格差により、まるで風にそよぐ鳥の体羽のように羽乃芽は尻餅をついた。 刹那、何かが風を切る音が響き、それと同時にケラが立ち上がった。 ケラのクチバシには、一本の矢がくわえられている。 そして、ケラが睨む階下から三人のグループが現れた。 「羽乃芽、か……なんとかかんとか! さっさとそいつから離れろ!」 一人の剣士が自身の身長を越す大剣を引き抜きながら叫んでいた。 とはいえ、剣が特別でかいというよりは、背丈があまり高くないと考えた方が自然であった。 何故なら、彼は凛とほぼ同じ身長であったからだ。 「ふえ?」 「ちょっと、あんた達! この子は私達の仲間なのよ! 矢が当たったらどうするつもり!」 凛が剣士の言葉に耳を傾けずに怒りを露わにした。 が、剣士もまた、凛の言葉を聞いていない。 「フィリア、援護を頼む。アインは、生えたばかりの角を狙え」 「角?」 羽乃芽が呟くと、これだと言わんばかりにケラが頭を下げた。 羽乃芽の目前には、ケラのとてつもなく大きい角が動きに合わせて揺れていた。 根元は羽乃芽の胴体ほどの太さがあった。 「わぁ……これが生えそうだったから苦しかったの?」 コクコクと頷くケラ。 その度に地面の茶色いタイルがカリカリと音を立てて削れていく。 「い、いかん! 魔獣が羽乃芽なんとかかんとかを襲っている! 行くぞ!」 「あんた達、話を聞きなさーい!」 全く会話が成立していなかった。 矢が飛ぶ、それをその体の大きさからは考えられない素早い動きでケラは捌いた。 クチバシを使い、角を使い、軽いステップで避け、避けきれない物は足で弾いた。 矢では決定打にならない。 だがそれは彼らにも分かっていた事だ。 魔獣と野生生物では運動能力に差は無くとも、戦闘能力には大きな差があるのだ。 フィリアと呼ばれた少女のクオーツが鮮やかなオレンジ色に輝いた。 その光が剣士の全身を包み、次の瞬間、剣士は地面のタイルを砕くほどの勢いで駆け出した。 一瞬でケラとの距離を縮める、が、到達するより前に凛が二本の短剣を振りかざした剣に押し当てて止めた。 「攻撃する意思は無い……とはいえ、間に突然入ってくれば、怪我をさせてしまうかも知れない」 「あの子は私達の仲間って言ってるでしょ! なんで分からないかな!」 「魔獣に異変が起こったり、あんたらに危険が及んだら、すぐに殺すように言われてるんだ」 「危険なんて無いし、ただ角が生えただけでしょ!?」 「充分に異変だろう! 何が起こるか分かったもんじゃない!」 もがきながら、角が生える。 確かに異変ではあった。 だが、危険な事など何も無いと二人は考える。 それはただ、身体的変化が訪れただけで、ケラ自体の行動になんら変化は見られなかったからだ。 襲い掛かってくる風でもなく、意思疎通も図れている。 仮にそうであったとしても、素早い動きで矢を捌き続けているケラを見て、はいそうですかと納得出来る彼等ではなかった。 魔獣を魔獣たらしめる高度な運動能力、それが人に向かえばどれだけ屈強な戦士でも苦戦を強いられてしまう。 それが自分達に牙を剥かないという保証は無いのだ。 油断は出来ない。 「……誰にそんな事、頼まれたの?」 「静香先生だ。分かるだろう? 『ダンジョンの中では、もっとも経験が深い者の言う事が正しい』それが全てだ。先生がやれと言うなら、俺達はそれを守るだけだ」 「でも、エラン先生はそんな事言わない! エラン先生は、何かが起こる事を期待してこの子と一緒に塔に入る事を許可したもの! 『ダンジョンの中では、もっとも経験が深い者の言う事が正しい』でしょ?」 静香とエラン、この二人の実力はエランの方が上だった。 そもそも、教師になるべく学校に通った静香と、幼い頃から冒険をして育ったエランでは、実力も知識の深さも段違いである。 ただし、エランは幾多の危険な経験をしてきている事から、大抵の事は大した事が無いと思ってしまう悪いところもある。 今回の魔獣の件も、そうした彼の生来の考え方が関係している。 「俺達は、静香先生の言う事しか聞いていない。俺達が従うのは静香先生だ。二人も指揮者はいらないんだ!」 剣士が「悪いな」と言うと同時に、凛の足を蹴るように払う。 「アイン! 俺に合わせろ!」 返事は無い。 弓を持った背の高い男が小さく頷いた。 それを確認する事もなく、剣士の男は駆け出した。 そして。 凛と羽乃芽、二人が魔獣を背に三人のグループの前に立った。 「もうやめてよぉ……」 辛そうに顔を伏せ、羽乃芽が涙を流している。 「見てよ……これだけされても、今は静かでしょ? この子には戦う気なんて無いんだよ。問題があるって言うなら、戻って静香先生の前で話しましょ?」 凛の提案に、剣士の男が剣を納めた。 「ツヴァイ……」 コジュエルブ特有の魔法士の衣装を身に纏った少女、フィリアが剣士の男の名を呼ぶ。 「これだけ痛め付けておけば、今すぐにでも殺せるだろ。それなら、危険は無い」 どこか、気の抜けたような声を出すツヴァイ。 今も泣き続ける羽乃芽を見て、微かな罪悪感に苛まれていた。 彼女の後ろには矢が何本も突き刺さった魔獣が居る。 足がもっとも強大で、そして最大の弱点でもあるドアケラ鳥。その両足に何本もの矢が突き刺さっている。 硬い筋肉は矢を浅いところで止めはしているが、立ち上がる力は入らないのか、地面に倒れ込んでいる。 倒れたすぐの頃は、何度も何度も起き上がろうとしていた。 それは、身の危険を恐れての事だ。 だが、凛と羽乃芽が間に立ってからは、何かを安心したかのように、じっとしている。 「酷いよ……こんなの……」 呟かれた言葉。 直接彼ら一行を――彼らの行いを否定している訳ではない。 だが、その言葉は紛れも無く、三人を否定している。 少なくとも、三人はそう感じた。 しかし、彼等がそれで非を感じる事は無い。 魔獣は倒すものだと、殺すものだと教えられた。 魔獣は実体を持たない。 生き物を模倣した魔法そのものだと。 だから、排除しても問題は無いのだと、教えられた。 それが後ろ楯となって、辛うじて自らを正当化する。 が、彼らの一人がそれを言葉にしてしまった。 「魔獣は、生き物じゃない……ただ、痛みを模倣しているに過ぎない」 「アイン!」 フィリアが弓使いの男を窘めた。 アインの言葉は、大筋では正しい。 塔を登っていくにつれて、魔獣は自身の怪我を気にしなくなる。 それは、その怪我が身体機能に関係しなくなってくるからである。 つまり極端な話、高度な魔獣になれば足が無くても移動出来るし、腕が無くても武器を振り回せる。 魔法だって使えれば、顔が無くても見る事が出来る。 痛みなど不要なものでしかないのだ。 「でも……だからって、おかしいよ! 苦しんでる! 痛がってる! そんな風に言うの、おかしいよ!」 凛が叫んだ。 存在を全て模倣しているのであれば、その痛みは真実だ。 普通の動物が、普通に苦しんでいるのと同じである。 魔獣だから、死体が残らないから、普通に産まれてこないから、 苦しんでも、死んでも、無関心になれというのは、凛にも、羽乃芽にも不可能だった。 「すまない……」 アインにそれが理解出来た訳じゃない。 だが、二人が悲しんでいる、それは確かだ。 その二人に対して何を言ってしまったのかを思い出し、謝罪の言葉を口にした。 「そいつを縛り上げた後、なんとか学園まで引っ張っていこう」 「そんな……」 涙を目に溜めてケラの隣に座った羽乃芽が、ツヴァイを見上げた。 「仕方無いだろ。台車なんて無いんだ。まして、この巨体を運べる台車なんて簡単に作れる訳も無い」 その話を聞いていたケラが立ち上がろうとした。 ツヴァイが剣を抜く。 アインが矢を弓へとあてがった。 「やめて! ケラっちは、ただ自分で歩こうとしてるだけだよ」 凛が両手を広げて再び間に立った。 二人は武器をしまいはせず、下へと降ろす。 ケラは立とうとして、踏ん張りの利かない足を震わせている。 人と違って弱音を吐いたりはしない分、その震えがその痛みをどれだけ耐え難いものか現している。 それを見て凛が複雑な表情を浮かべた。 ツヴァイ達も、自分達がやった事だというのに、それを見ては平然とはしていられなかった。 それは魔物を傷付けた事への罪悪感ではない。 生き物が生きていく為には多くの犠牲を必要とする。 今更、生物が死に行く姿を恐れる彼らではなかった。 彼らの心中が掻き乱されているのは、彼らの前で一人の少女が絶える事無く涙を流しているからだ。 しゃくりあげながら、震える声で魔獣に懇願している。 無理をしないで、と。 その言葉に、まるで大丈夫だと答えるかのように、魔獣が小さく鳴いた。 だが、大丈夫などではなかった。 次の瞬間、彼は膝から崩れ落ち、刺さった矢を地面に擦り付けるようにしゃがみ込んだ。 痛みで甲高く声を上げた。 「ケラちゃん! こんな、こんな怪我……治っても歩けなくなっちゃうよ……魔獣だからって……」 頭をよぎるのは最悪な結末ばかりだった。 高層の魔獣は確かに普通の動物とはまるで違う存在だ。 だが、低層の魔獣は、普通の動物とあまり変わりは無い。 ならば、野生の動物のように傷口からの感染で、あるいはその出血で死ぬ事もありうるのではないか? 「あの子は、どうなるの?」 「可哀想だが、傷を負ったドアケラ鳥は生きていけないんだよ」 「なんで?」 「彼らは群れで暮らすからね。群れとはぐれて他の動物に襲われたり、怪我が原因で体が弱ってしまったりして、苦しみながら死んでしまうんだ」 それは、遠い昔交わした、村長との会話だった。 その後、それを見はしなかったが、残酷な事が起こる。 成鳥とは異なりやわらかい筋肉を持つ子鳥。 子鳥とは言え、その体は大きく、一匹捕らえる事が出来れば一週間は食べる物に困らない。 だから 「だから、今ここで死なせてあげるんだよ」 「やだ……そんなのやだよぉ!」 生き死にには多く触れてきた。 もうそれで悩む事は無くなった。 けれど、昔の想いを消し去る事は出来なかった。 ずっと押し隠してきたその想いが、噴き出したのかも知れない。 クオーツがそんな羽乃芽の心に呼応して、真っ青に輝き始めた。 「また、違う色?」 凛が呆然としながらその輝きを瞳に映した。 深い青と明るい青がまるで波のように揺れながら、塔の床も壁も天井も染め上げていく。 そこはまるで海の中のような、見事な青の世界だった。 言葉さえ失うその絶景の中、ケラの傷口が盛り上がり、矢が徐々に表皮へと移動して、ついには抜けた。 それが全身に起こり、全ての矢が抜け落ち、同時に羽も殆どが生え変わった。 「回復魔法だわ」 フィリアが言う。 さほど驚いているようには見えなかったが、彼女は心底驚いていた。 回復魔法は一部の神官――勿論アルセルブに通っている神官見習の事ではない――しか用いる事が出来ない高度な魔法である。 無闇矢鱈に使えば、逆に受け手の細胞を破壊して死に至らしめる可能性もある。 よって、クオーツにはリミットがかけられている。 禁忌とされている魔法を用いようとした場合、よほど魔力の流れが安定していない限りは発動しないようになっているのだ。 両手を広げて、強い面持ちで羽乃芽は三人と対峙した。 「……おいおい、もうやり合うつもりは無いって」 ツヴァイの言うそれは、真実だった。 羽乃芽の涙を見る前は、ケラはただの魔獣だった。 だが、今はそう思えない。 それはツヴァイだけじゃなく、フィリアもアインも同じ事だった。 だから、攻撃する意思は無かった。 「なら、武器をしまってください」 羽乃芽が強く、確かな言葉で言った。 その背後で、ケラは膝を突きながら頭を下げている。 まるで、羽乃芽の後ろに隠れるように。 実際にはまるで隠れられてはいなかったが、その場に居る全員はそれが隠れているのだと分かった。 その姿はまるで、偉大な母の背に隠れる子犬か何かのようだ。 「分かった」 ツヴァイが剣をしまう。 それに続いてアインが弓を肩にかけた。 「今回の事は、静香先生に伝える。害は無かったが、突然角が生えたとな。羽乃芽……なんとかと、凛五月女だったな。気をつけろよ。今は友好的だが、この先どうなるかは分からん」 「まだそんな事……」 凛が何か反論してやろうと口を開いた。 が、それを遮るように羽乃芽の声が響く。 「なんともなりません。それと、私の名前は十七夜月です。か、の、う」 ツヴァイが口元に小さく笑みを浮かべた。 「すまんな。俺は西の出身なもんで、南の方の名前は呼びづらい。ま、他の魔獣とそいつとくらいは、きちんと区別しろよ。そいつは特別だ」 そう言ってツヴァイがゆっくりと背を向けて、階段を降りていく。 アインが最後までケラを警戒したまま、最後に駆け足でツヴァイとフィリアを追いかけていった。 「怪我、治って良かったね〜」 「うん」 嬉しそうに笑う羽乃芽に、ケラが頭をすり寄せた。 その光景をどこか遠い物を見るかのように微笑み見ていた凛だったが、羽乃芽のクオーツに視線を走らせた時、その笑顔が消えた。 羽乃芽のクオーツは、真っ黒な石のまま、なんの色も放っていない。 大した魔法を使える訳でもない凛でさえ、微かに、ほんの微かに緑色の光を放っているというのに、あれほどの魔法を使った羽乃芽のクオーツが真っ黒だというのは合点がいかなかった。 「どうしたの? 凛ちゃん」 「え? あ〜、このまま二階の探検するかどうか悩んでたんだよ〜。ケラっち、完全に怪我治ってないなら辛いでしょ?」 その言葉に、まるで大丈夫だと言わんばかりに、ケラは飛び跳ねたり走り回ったりした。 そして一行は二階の探索を始めた。 |