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3 星と月と僅かな炎だけが輝く夜。 虫の鳴き声、犬の遠吠え、そこは確かに夜だった。 「魔獣だー! 魔獣が出たぞー!」 「人が魔獣の上に!」 「弓は撃つなー!」 一瞬にして崩壊した夜のイメージが、それ以上の非日常的光景で塗り替えられていく。 人の身の数倍はあろうかという鳥。 その鳥に運ばれていく二人の少女。 そして、それを追う戦士達。 大勢の走る音と、鳥の走る音、それを上回る勢いであげられる掛け声。 魔獣と戦士達、どちらが引き起こしているのか定かではない地響きが木々を揺らし、突如訪れた喧騒に、森の生き物達も共に騒ぎ出した。 「こんな夜中にあんな大騒ぎをして」 「すみません」 凛と羽乃芽が床に膝をついて祈るように手を合わせている。 これは許しを乞う姿勢だった。 その姿勢を取るという事は、全面的に自分が悪いと認める事でもある。 「夜なので人は殆ど居ないって思って」 「騒ぎにならないとでも? 門番も居れば、浅層を冒険して帰ってきた生徒も少なからず居るでしょう?」 「ごめんなさい」 言い訳をする凛とは対照的に、一言も発する事無く目に涙を溜める羽乃芽。 ぷるぷると震えながら目の前に立つ女性の足を見ている。 この女性は魔法科――コジュエルブの教官の一人だ。 実はコジュエルブの服を受け取る時などに彼女の私物を羽乃芽は傷付けてしまい、大層怒られた事がある。 それ以来、羽乃芽はこの女性――静香に恐怖を抱いている。 ちなみに、静香とは言うが直情的で、怒ると声を荒げる事が多い。 「どうやって魔獣を塔から連れ出したのか分からないけれど、こっちは良い迷惑だわ」 静香は黒いマントを羽織っていたが、その下は暖かそうな生地の服を着ていた。 早い話が、寝間着である。 「すみません」 何度目かになる謝罪の言葉を凛が口にした。 「すみませんすみませんとさっきからそればかり……あなたは少し黙ってなさい」 人差し指を凛の眉間へとびしっと突きつけた。 寄り目でそれを凝視した後、凛は力無く顔を下げた。 「いやはや、あれは不思議な魔獣だ」 三人の元へと歩いてくる影があった。 「エラン先生」 静香が男の名を呼んだ。 「近付いても攻撃してくるふうでも無く、ただの動物かと思えば魔力も有している。確かに魔獣ではあるのだが……羽乃芽、と言ったかな」 エランに名前を呼ばれ、羽乃芽がゆっくりと顔を上げた。 「出身は南の方だったね?」 羽乃芽の出身は、さほど南の方という訳ではない。 しかし、青嵐学院のある位置からすれば、確かに南の方にある。 羽乃芽は黙って首を縦に振った。 「あれは南の地方に生息するドアケラ鳥という動物に酷似している。何か、手懐ける方法でも知っているのかな?」 今度は首を横に振る。 あの眩い光の後、魔獣と意思疎通が出来るようになったのは確かだったが、それがなんであったのかも分からない。 「ふむ」 エランは顎に手を当て、首を軽く傾げた。 「なんにせよ、塔の魔獣が外に出てくるなんて前代未聞のことです。調査しなければ」 「確かに」 エランと静香が目配せしながら、ほぼ同時に頷いた。 静香のクオーツが鮮やかに光を放つ。 様々な絵の具を混ぜたように不安定だった色が、やがて薄い黄緑色のみになり、周囲にその色を落とした。 暗闇にゆらゆらとその光が揺れ始めると同時に、クオーツを中心に風が巻き起こり、魔獣の姿勢が崩れた。 魔獣が鳴き声を上げて苦しそうに身悶えしている。 「先生! 何を!?」 「ただの捕縛術よ。何かと便利だから、あなたも使えるようになっておいた方が良いわね」 静香の言葉は羽乃芽に届かない。 今は魔獣の事で頭がいっぱいだった。 「痛い事は、しないであげてください……」 「ただの捕縛術だと言ってるでしょ。全く、これだから魔法の一つも使えない子は」 自由を奪われた魔獣は、今なお鳴き続けている。 その様子が一見すると何かよくない事をしているように見え、静香は私は悪くないとばかりに悪態をついた。 「さて、中庭に檻は作っておいたから、そいつを運んでもらえるかな?」 「はい」 エランの指示で、魔獣は見えない綱で引っ張られた。 魔獣が抵抗し地面に倒れるが、静香は構わずに引っ張り続けている。 筋力はまるで関係しないのか、自分の五倍以上はある魔獣を楽々と引き摺っていた。 甲高い鳴き声が夜の闇に響く。 「さて、君達はまっすぐ帰って今日は眠ると良い。帰ってきたばかりで疲れただろう?」 エランが魔獣と羽乃芽達の間に入って、そう言った。 「明日、詳しい話を聞かせてもらうよ」 そう話している間にも、静香と魔獣は争っている。 一方的に魔獣が虐げられているようにも見える。 一際甲高い鳴き声を上げて魔獣が静香に蹴りかかるが、それさえ難なく弾き返した。 見えない綱が、弾き飛ばされた魔獣を強引に引き寄せ、不自然な体勢で倒れ込む。 「あ、羽乃っち!」 痛々しく顔面から叩きつけられたのを見て、羽乃芽が走った。 エランは何をするでもなく、それを目の端で捉えながらゆっくりと振り返った。 「もうやめてください!」 半ば悲鳴のようなその声。 魔獣との間に入ってきた少女を見て、静香が深く眉を顰めた。 「そんな無理矢理引っ張らないでも、ちゃんと言う事を聞いてくれます!」 「そいつは私に蹴りかかってきたのよ?」 静香には羽乃芽を諭そうという意思は無かった。 自分が行っている事が正しいと正当化する為の一言。それを発して再び歩き出す。 「そこに居ると、魔獣の下敷きになるわよ」 冷たく言い放ち、ゆっくりと歩く。 本気で羽乃芽を魔獣の下敷きにするつもりは無いようであった。 しかし羽乃芽は、自分へ降りかかる危険よりも、目の前で苦しんでいる魔獣を心配している。 再び駆け出す。 羽乃芽が静香にすがり付いた。 「何をするの! やめなさい!」 「先生こそ」 言う羽乃芽のクオーツが光を放ち始めた。 赤い光だった。 「もうやめてください!」 彼女が叫ぶと同時に赤い光は更に強く輝き、辺りを真っ赤に染め上げた。 その色は静香のクオーツの色を飲み込んで別の色へと変えていく。 「嘘……羽乃っちのクオーツは黄色い色の筈なのに」 凛の呟きにエランは大きく目を見開いていた。 「なん……だと?」 エランと凛は、別の事で再び驚かされる。 目の前に魔獣が転がってきたからだ。 魔法の綱に抵抗していた魔獣が、突然その綱を絶たれた事により転げたのだった。 魔獣は二人の目前で立ち上がり、静香の方へと足を上げた。 「なぜ?」 呆然と佇む静香。 その問いは自身の魔法を無効化された事に対して向けられていた。 ただの生徒が、コジュエルブの教官とはいえ、一介の教師の魔法を無効化出来る筈が無い、と。 しかし現実としてそれは起こってしまっている。 足を上げたその姿は、この魔獣の攻撃の意思だ。 「どきなさい!」 自分にすがりついた羽乃芽を振り払い、再び魔法を編む。 だが、羽乃芽を振り払うと同時に魔獣は静香へと襲い掛かってきた。 より早く発現出来る魔法へと瞬時に切り替える。 だが、それでも間に合うかどうか分からない。 魔獣の背後ではエランも魔法を編み始めていた。 だが静香よりも後に編み始めた魔法である。間に合う訳が無い。 万事休すのその時、羽乃芽が叫んだ。 魔獣を制止する言葉。 それを受けて、魔獣が止まる。 瞬時に足を下げ、頭を下げ、縮こまる。 その姿勢のまま静香に対して横を向いた。 魔法に対する防御姿勢のようにも見えた。 少なくとも、攻撃をする為の姿勢ではない。 だが、静香はそのまま魔法を発動させてしまう。 殺さない程度に痛めつけた方が、安全に扱えるという考えの下に。 再び暗闇が広がった。 眩い光の応酬は終わり、今は薄ぼんやりとエランと静香のクオーツが輝くのみだ。 「……何故、です?」 「その魔獣に戦う意思は無い。見て分からないか?」 その言葉は、どこか叱り付けるような響きを持っていた。 「それに、ダメージを受けて羽乃芽君の言う事まで聞かなくなってしまったらどうする?」 エランが魔獣のすぐ真横で言った。 「だから私は……静香君、君の魔法を無効化したのだよ」 片手を上げて、魔獣のクチバシに手を当てた。 だが魔獣はエランの手を跳ね除けようともせず、ただじっとしている。 その様子を見て静香は言葉を失った。 「さて、羽乃芽君、こいつを裏庭に誘導してもらえないだろうか」 「は、はい」 「……なんでそいつは、あなたの後ろに隠れるのかしら?」 静香が羽乃芽に問う。 羽乃芽は困惑した表情を浮かべるだけだった。 「はっはっは! その魔獣は君を恐れているようだな、静香君!」 エランの言葉に同意するかのように、魔獣が軽く鳴いた。 そして羽乃芽にその頬を押し寄せる。 「それだけじゃなくて、羽乃っちが好きなんだよ!」 凛がまるで自分の事のように喜びながら言った。 その言葉を受けて羽乃芽が嬉しそうに笑った。 檻の中で静かに待ってるように言い付けた後、羽乃芽が意思の強い眼差しをして言った。 「この子は、私が預かっていても良いですか?」 「何を言ってるの?」 静香が問い返すが、羽乃芽は静香の方を見ずに話し続けた。 「研究の邪魔はしませんし、ちゃんと言う事を聞かせますから……独りにさせたくないんです」 「ふむ、確かに、君のそばに居ればこの魔獣は暴れださないようだし、そうするのが良いかも知れないな」 そう言うエランに対して、静香は驚愕の表情を浮かべた。 「そんな! 何が起こるか分からないんですよ!」 「責任は私が持つ。塔へも連れて行くと良い。塔で生まれた魔獣だ。何か変化があるかも知れない」 「変化があってからでは……」 呟く静香を、エランは一瞥して黙らせた。 「ただし、魔獣の調査には全面的に協力してもらう。とりあえず毎日レポートを書いてもらうが、良いね?」 「はい! ありがとうございます!」 場が丸く収まろうとしていた。 その時、静香が声を荒げて言う。 「と、塔に一緒に入るのなら、三人パーティーを組んではいけませんよ! 授業は公正に受けてもらいます」 「……全く、君は生徒に厳しいな静香君。だが、確かにその通りだ」 エランはそこまで言って羽乃芽と凛の方へ振り向くと、再び口を開いた。 「そういう事だから、君達は一匹と二人――一組で塔には挑戦してもらおう」 |